@article{oai:hokuriku.repo.nii.ac.jp:00000729, author = {福江, 充 and Fukue, Mitsuru}, issue = {54}, journal = {北陸大学紀要, Bulletin of Hokuriku University}, month = {Mar}, note = {江戸時代初期、加賀藩前田氏は、立山衆徒(芦峅寺と岩峅寺の衆徒)を、のちに江戸幕 府が本山末寺制度に基づいて日本の仏教界を統制する以前に、自藩の寺社奉行の支配下に 治め、さらに立山衆徒に対し立山信仰に関わる宗教的諸権利を分与するかたちで認め、立 山の実質的な管理をさせている。 加賀藩のこうした政策は、同藩が立山・黒部奥山の広大な領域を誰にも邪魔されず独占 的に支配するためのものであった。すなわち筆者は、加賀藩が立山・黒部奥山の軍事的重 要性や鉱山資源・森林資源を有する場としての重要性、さらにはマイナス要件として、隣 藩や江戸幕府との間で国境問題が勃発しかねない不安定な地域であることなどを強く意識 するあまり、幕府の宗教界に対する統制よりも先んじて、立山衆徒を自藩の支配下に治め、 彼らと各宗派の本山との間に本末関係を一切結ばせず、幕府の影響が直接的に及ばないよ うにする目的があったと推察している。そのため、以後、立山衆徒は他の寺社とは本末関 係を結ばず、比叡山とは一切関係のない「無本山天台宗」或いは「天台宗門一本寺」を称 して宗教活動を行っていった。 しかし、加賀藩の政策に反して、長い江戸時代のなかで立山衆徒は加賀藩に徹頭徹尾支 配されながらも、それとは別に加賀藩の外の権威を得ようとする動きが度々見られ、筆者 はそうした行動が、いずれも近世の立山信仰の展開に大きな意義を持っていると考えてい る。 そこで本稿では、立山衆徒が加賀藩の外の権威に関わった事例として、芦峅寺十三郎が 京都吉田家から神道裁許を受けた件(第 1 章)、芦峅寺衆徒と武家の権威に関する件(第 2 章・第 3 章)、岩峅寺衆徒が立山大先達の免許状を捏造した件(第 4 章)、岩峅寺衆徒 と公家・門跡寺院の権威に関する件(第 5 章)の四つを題材に取り上げ、それらの実態と 意義を立山信仰関係の古文書史料から分析し、最後に、以上の事例をとおして加賀藩の立 山支配の在り方を考察した。}, pages = {165--192}, title = {立山衆徒が求めた加賀藩の外の権威}, year = {2023}, yomi = {フクエ, ミツル} }